昭和42年11月14日 朝の御理解
何でも同じでしょうけれど本当のものになると言う事は、私は何を志す人でも目的がなからなければいけない。信心でもいわゆるもし白信者とほんとの信者とが、おるとするならあれは面かぶっとるだけじゃと、金光様金光様と言いよるけれども。金光様の面かぶっとるだけだと言われるよりもはぁあの人こそほんとに、金光様の御信者だなと皆に認められる、又神様からも認められる。
本当の信者を目指さなければならず、又それでこそ稽古をしておる者だと言う事になる。だから例えば真の人とか真の道とか真の人とかと申します。真と言う事がです真の人というのが本当の人だと言う事だと思うんですよね。真の信心というのが本当の信心と言う事だと思うんですねぇ。ですからその本当の信心を私は目指させて貰う。昨日あの様に盛大に初めてのここの、築水連合会信徒連合会の共例会が御座いました。
もう誰しもがこういう取り入れの最中で御座いますから、寂しい少ない事だろうとこう言うとったけれども、やっぱりあれだけのおかげを頂きまして、やっぱりその幹部連中、特に会長である平田さんが、非常喜ばれました。もうここに来るたんびに、いわゆるほんとの事が分かって行くからなんです。私くしは昨日、それこそもう、夜の御祈念が終わる頃までおられました。
もう一緒について行っておりました、あの樋口っつあんが、会長がこげん機嫌いいのは又となかったっち言うてですね、もう誰も頼みもせんとにですね、もう沢山あの、あの人は左の手で字を書かれるのが、お得意なんですね。中々良い字を書かれますですね。私共書いてくれと頼んだ訳でもないですけれども、皆さんあそこ、十何人にやっぱり、ほんとにやっぱり、何をするでも一つ、迫力いると思うですね。
とても私どもはあんな大きな字じゃ、あんなにとっても書きやしませんですね。もうそれをまあその、こちらが頼むなら、まぁだどがしこでん書いてやるっち、言う様な風なで御座いましたがね。その、こんな事も私も随分、会長とはどこんでん行くけども、初めてって言うてですね。ですから結局甘木の信者とか、久留米関係の信者とか、又甘木の教会とか合楽とかって言った様な物は、もうないという感じですね。
いわゆる本当の道によって、助かっていく者同士のねその集いであり、またそう言う事の為ならば、誰が何と言うてもというのが、平田さんの信条らしいんですよね。そこの私共のしかしあの迫力にはもうほんとに恐れ入るな。もうそれこそそらもう大抵でご無礼しようかと言いいながらまた、一生懸命話され話されるのがですね、成程強引な押し付ける様な言い方をされたり、自分がもう腹を立てておられると言った様な、表情じゃなされたりするけれども、やむにやまれんものらしいと私は思いました。
もう帰らせて頂ます、表の玄関まで、ですからもう自動車に乗るまで、話していかれるんですね。もうほんとにもう、驚くばかりですね。やっぱり、ある人が言うたという、成程、大平田の面目やくじょしておるという感じで御座いました。そしてから、帰る時にはですね、帰る時には、「さようなら」「さようならじゃいかん」ち。行って来ますち。(笑)だから今言うなら「早よう帰りなさい」と言った様な調子でした。
もうどこでもそうでなからないかんて、教会と言うものはですね。おかげ頂きました、さよならじゃいかん。教と言うとこは自分の心のふるさとだから、という意味でしょうね。さよなら、又いらっしゃい、又いらっしゃいじゃなくて、又早よ帰りなさい、と言った様なもうとにかく、又誰かが来て下さいと言うたぶんなら、もうそれこそ何時でも来ると言った様な、私は、私のこるは流儀で御座いますからね。
是が何年か経って、あの人に来て貰おう、この人にああして貰おうと言う事は、それこそあれだけ沢山書かれましたけども、私にもいっちょ書いて下さいとは、申しも致しませんでした。けれども一番最後に、心からのを一つ書かせて貰おうて何ち書こうか、神徳って書こうて言うて言われましたからね、もうなら折角書かれるなら神徳、じゃ神徳と言うよりも、その神の字一字を書いて下さい。はっそらそうでした。
もうそう言う所がもう、打てば響く様に分かられるらしいですね。そうしたらは是にはなら私のサインはしてはいけない。これは誰が書いたやら分からん、言うなら、自分がもう書く事を遠慮されましたですね。もうほんとにその打てば響く様に、こちらの気持が分かって貰い、またむこうの良い事が、よぉ分かるのです。そういう一生懸命のお話の中でで御座いました。
丁度佐田さん皆取り囲んでお話を聞いておりましたら、佐田さんだけ、あなたでしたねあなたが今日はそのお話しされた。もう是はあなたの話しだけじゃないですけれどもです、あれだけもう、信徒会の始まって恐らくよその教会の者が、出る幕がなかったっていうのはここだけだった。それが後から御直会の時にある教会の御信者さんが、もうほんとに話そう話そうと思うばってんです、あの話を聞きよったら、出る幕がなかった出る幕じゃなくてもう話せなかった。
それこそ一人二人位はですね、筋の通った話をするけれども、ここ位まるきり話しよった様にその一貫した話しですね。いわゆるお取次ぎがいかに大事であるかと言う事。その、お取次ぎをして下さる先生がいかに又、有難いものであるかと言う事。それがどの人の話しにでも矢張り一貫しておりました事ですね。もう是なら絶対、現在の金光教では受けまいですね。受ける、じゃないそれが事実本当なのですから。
私がこげなん信心したけんこげなおかげ頂いたってち、それがどういうおかげであっても、是は受けませんですね。また受けないのは金光教の建前なんです。お取次ぎを頂いて、お取次ぎの先生を神様の様に頂いて、私はあの久富正義さんが言われてましたあれはもう思わず知らず出たんじゃろうと思うけども「金光大神の御神格をうちの親先生は頂いて御座る」こういう表現なんかはですとても出来る事じゃないですよね。
もうそれがその、もう是には矢張り皆が驚いたとこう言う訳なんですね。ああ言う風にんなら、私は最後に委員長が、秋永先生です。もうほんとにこの頃皆さんが言う一口も言わんで、済んだと言うから、もう先生あんたが、言わんが一番よかってもう、私がうちにはまあだあれで総代一人も出ていない。勿論信徒会長は出てない、総代は出てない。もうここの、言わば本当の幹部いわば純然たる幹部と言った様な、者は出らんなり、いわゆる言うなら、あれだけの事が出来たって言う事はですね。
矢張り信心を思い、教団を一生懸命思うておられる平田さんとしては、もうその事がもう嬉しゅうして堪らんごたるふうじゃ。本当に教団の発展の為に、合楽が愈々、発展していかなければならん為に、私の様な者ででも使うて貰うなら何時でも、やっていこうて出来ますから、と言う様な事で御座いましたが、私、その思いますのにですね、先程も申します様に、本当な事と言う事ですよ。私が皆に話しました。
あれだけ一生懸最後には、ここの先生はうちの初代の先生の信心と通ずる。うちじゃ、あげんじゃったもんねって言うて、樋口っつあんに話してありました。それはですほんと言うならば、合楽の信心の入口ですよあれは。まだ私の信心の神髄って言う物は、是から先でも話しとらんです、言うなら一般的な話しなんです。一般の人にも受けるって言う話しだけだったんです、言うならばねぇ。
いわゆる、私の信心って言った様なのが、まだ話そうともしないし、見せようともしない。けれどもああしてまた、お近づきを頂きよる内にです、恐らくは、分かられる事であろうとこう思うんですね。私は、本当の事と言った様な物が、成程、何時までもその命と言うかなのがあるて言った様な事を、昨日、又前に樋口っつぁんが先にみえました。それで後2、3人お茶をあげております時に、私、何の事言うて居られるか分からなかった。そりゃ先生私は昨日やられたっち。
何か戸畑かどっかで北九州の教会の親子の集まる会があって、その会にまあ出席されたらしいんですね。小倉の教会と戸畑の教会の、教会を兼務で総代をしておられるという光橋という人らしいんです。何時も私がよく話しますあの、私甘木の親先生にお会いした一番最初の時に九州中の言わば信者の主だった人だけが集まり、先生の様な方達が集まって、当時の教官である佐藤和雄先生と、それから随行に博敏先生がおみえられて、甘木の先生を交えて一夜あそこに泊まりがけで、お話を頂いた事があるんです。
そん時に、私があの、発表しました事がですね、当時私はあの、福岡の方で言うなら修行中で御座いました。案内は受けとりますけども、第一旅費がなかったんです。米何合持ち合わせにゃん、その持って行く米が無かったんです。そしたらその朝になりまして、近所にお米を家内が貸しておったという人が、お米を持って来てくれました。福岡の奥様が善導寺の教会に、星野からお茶を買って貰っておられた。
その代金が五百円がた、お茶を買うて貰うておったから、私が善導寺に帰ると言うもんですから、あの大坪さん是も、その朝でした。持って帰って下さらんか、と言う事でしたから、私はその事を発表したんです。いかに、神様が生きて御座るか、成程、私の金でもなからなければ、それこそ米びつも空と言った様な状態の、話をしてから、それでもこうやって今日、今日ここにおかげを頂いておる。そこに福岡の吉木先生もあられりゃ、荒巻先生もおられる訳なんですね。
ですから前で、いわゆる吉木先生の奥様から預かったお金。その金で実は旅費はここで来ておるのであり、けれども私は、けれども私は善導寺に帰るまでには、この代金は必ず出来るという話をしたんです。その話しと言う物は色々変わるものだなと私は思ったんですけどもね、その話を私の横におった人がその、戸畑の光橋という人だったらしいんです。その横に、甘木の初代でした。
所がその平田さんといわゆる樋口っつぁんが私の傍にやって来てからもう私の前で、卓を叩いてですね、ああ言う事を発表してからって言う訳なんです。あれだけの信心が出来とって、そげん貧乏する筈はなかじゃないか。( ? )そげな話しをしてからっちからもうてんで( ? )っち私に言うとですもんして黙って聞きよりましたけども、樋口っつぁん、私が何時まで貧乏するっち言う事を私約束したのっち(感動)。
この調子で行けば必ずおかげを頂くって私は申しましたが、その通りの話をですね、その光橋さんが覚えとったわけなんです。そして樋口っつぁんあんたが言う事が何時も問題になるが、あんたもう20年前ですね。20年前いわゆる合楽の大坪に、こういう事をあんたが言うとろうが。合楽では3億万円の、御造営が出来たって言う風じゃないか。北九州ではもうもっぱらの評判だ。あんたその事しっとるか。
あんたが20年前にあんな事言うてからと、いわゆる、ほんとのものをほんとのものと見きらなかったと言うてその「やかましかった」ち、言うたそうです。「そげなこと言うた覚えがあるじゃろうかち」言うてから、ここで、話されよったですもん。いや言いなさったですよって」別によかと私し言おうかと思うたですけれどもです。はあそげな事ありましたかね、て言うて、話しましたけれどです、あの話しが事実で、本当であったと言う事が分かるでしょう。その又その光橋という人が聞いておってです。
それがあの今の、合楽の教会長である大坪じゃったげな、というのが分かった時にです、それを問題にして、その樋口っつぁんが、もう昨日は光橋にやられてからちゅうて、言う話しを一番口にしておられました。ですから本当なものは本当の物としてです、何時の時代でも通用するだけではなくてです、それが何時迄も光りを放つと言う事ですよ。そう様な話を聞いております時にその、前に座っとる佐田さんの奥さんに、平田さんが、あんたじゃったね、今日話したあの話は良かったばい。
ほんとにあのあんたの話しの、中に、あの御神夢を頂いた話をしとりました。親先生がもうほんとに、深いのやら浅いのやら、広いのやら狭いのやら分からん。もう本当にうちの親先生ばっかりは、ひょうたん鯰の様な人じゃと言うて表現して、あれはちょっとひどかったけれども、本当の事言うと、と、言われる訳ですよねえ。ここの先生を前にしたけれども、ここの先生は少しやっぱ、頭が少し足りなさらんもんねって言う事を申しました。もう私はそん時、嬉しいな嬉しいと思いました、ほんとに。
言うならばここの先生はちぃっと馬鹿じゃんねという意味なんですよ。したら次横から樋口っつぁんが、その馬鹿だからこそ足らんからこそ、信者が足らんとこに一生懸命なら、一生懸命なるから、現在のここのおかげがあるのだと言った様な事を、言うておりましたけれどもです是なんか聞きおってから、是が椛目の信心の入口である事が分かるでしょうが。ねえ。けれどもですたいね、けれども私が今日言う。
ほんとに、馬鹿とあほで道を開け、是なんですからね、ここの信心は。言うなら。その、馬鹿と阿呆がほんとの者に、こういう人達にでも、ほんとなもの、ほんとな馬鹿と、言わば見られていきよると言う事が素晴らしい。ほんならまだ私しが完璧、本当のものであると言う事は、自分でも思いませんけれどもです。ね、是が本当だ、ほんとに、椛目の大坪ばかりは、あれは馬鹿とアホで道を開いたと、ほんとに言われる私にいよいよならなければならんと私は感じたんです。
まぁだまだ、例えば私の信心が、言うならば分かる筈がないです。私自身が分からんとですから。ですからそう言う様な物がまだ是からも、まだ出てないです。まぁだ一般的な所が出ておる。こうなかなければならない、ああなければいけないと言う事をです、なら椛目の御信者さん方が一貫して、しかも話し合うた様にです、ああいう、例えば筋の通った、話をなさったと言う事だけであれだけ。
だから願わくば今のこの信心が、十年間、このまま続いたら、合楽は素晴らしい事であろう、十年間のこの信心を挫折する事なし、この先さを持ち続けてください、と言うてもう、何十回それを繰り返されたか分かりませんでした。私はそうではないと思うですよ、実際は今の、今の信心が続いておったって何になりますか。そうでしょうが、愈々若さを発揮していく。愈々力を発揮していく。愈々本当の馬鹿と阿呆を、発揮して行く物ですから、今の様な事じゃったらいかんでしょうもん。
平田さんが、十年前に、福岡の教会で話された中に、それを古屋さんが聞いておって言うておられました。はぁ十年前の事あんたが覚えとってくれたっち、言うて手を握って喜んでおられましたがですね、その青年会の集いかなんかだったらしいですよねえ。青年というのはです、花が咲いておるのだ、と言う訳です。けれども咲く為の花ではない、実る為の花だと言われたそうです。
まさに。椛目の場合が今、例えば花が咲いておると言うても、花だけで終わるのじゃないと言う事。実る為の、花でなからなければならないと、云う事なんですよね、言うならば。私くしはいよいよ、いわゆる、ほんとのものになりたいと思うねえ。本当の信者というのは、あれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると、ほんとの信者。真と書いてありますね。読むと。真の信者じゃとこう仰る。
真の信者を目指さなければならない。だけども私はです、本当に善意で言われた事ですね、やはり。ここの先生はやっぱり、頭がちっと少しは足んなさらん。けれどもうちの甘木があげんじゃったと、言う様な意味で言われるのですから、是はもうそういうああいうタイプの先生とこう、並べて話されるのですから、是はまあ言うなら、褒め言葉でもあると私は思うんです。
けれどもほんとに、私はもうこれは、平田さん達だけではない、ほんとに周囲の人達、それは本部の人達でも、久留米地区の人だっても、それは思うておるだろうと思います。またそう言う思われとるだろうという、節は沢山あります。実を言うたら親先生からでもそう思われとるです私くしゃ。だからもうこの人はち言うてからそこで何時も別格扱い。もうこの人だけはでけんけんで、あんたがせんのち。
私この頃若先生に、祝詞一生懸命教えよんなさるとじゃん、もうお父さんじゃでけんけん、あんたがしっかり覚えとかんのち言うて。だからほんとに実は有難い事なんです。馬鹿を軽蔑する訳じゃないです。本当の意味での、いわゆる馬鹿と阿呆にならせて頂きたいと言う事なんです。それで道を開けとおっしゃるのだ、それでいよいよ、ほんとに道を開かせて頂こうというのですよ。いわゆる、偉大なる馬鹿であり。
偉大なる阿呆なんです。いわゆるほんとうの阿呆を目指させてもらうと言うこと。何でも私は、せっかくやるならです、ほんとなものにならなきゃいかんと思うですよ。ですから昨日、まあ信徒築水連合会の、ああしたもうほんとに最後まで、またああいう雰囲気は、初めてだったと言うて、皆さんが喜んで下さいましたけれどもですね。まあその後のまあ余分の様な、もので御座いますけれども、あのまあ共励会余分御座います。
それで私が感じた事愈々お互いが、本当のものを目指さなきゃならないもう本当にです、例えば合楽の信心のほんとなもの、神髄に言うなら触れられたらもうそれこそ成程、昨日秋永先生がある方を案内した時にですね、どこの一団か分からないけども是非ここを案内してくれと言うので。それで一番最後に私の部屋に入り、もうあちらのあたりの人達はそら、やはり先生を神様と頂いておられましたですからね。
ここで親先生のお住まいの、お部屋に使うております、そらもう参ってもいいでしょうかと言うて、その部屋を拝まれたと言う事ですです。親先生が入っておられる部屋だ、と言う訳なんですよね。そして、私どもも随分歩きましたけれども。こういうお広前は、ないと言う事になりますと、是は世界一のお広前で御座いますて。言われたって、秋永先生が夕べ話しておりました。と言われる様にです、んなら。
お広前だけではないここの内容がです、本当な事言うたら本当にあちらの信心こそが世界一と言われる様なですね。ある意味で日本一と言う事はもう世界一に通ずる事だと思うんですと言う事になって来た時に、私はここのほんとの開花と言うかね、実りという開花でしょうね。そう言う私は開花でなからないけないとこう思うんですね。どうぞ一つ皆さん、本当のものを目指して、信心の稽古を習わないけませんですね。
どうぞ。